批判する行為を批判することの労力|ジャッジを恐れずに表現し続けることの楽しさ
殆どの場合、世の中にはいろんな人や色々な考えがあるという根底が無視される。
自分の意見を真っ向から完全否定する人を、拒絶したいという心理が必ず働くのは人間として逃れられない傾向にある。だから、ほとんどの人は、誹謗中傷をやはり「悪」「頭のおかしい人」と決めつけてしまう。
これまで仲良くしていた人でも、自分の思想と少し違うという理由で、突然人が傷つくような言葉使いで陰口をツイッターでつぶやいたりしている。今年はそれがすごく悲しい出来事だった。まわりの人からこんな事言われてますよって教えてくれたりもするので、自分からフォロー解除したりなんだりしててもそれはあまり意味がなかったりするのだ。
もちろんだが、否定的になる。おそらくもう絡むこともないだろう。私がこれまでブログで言っていた「世の中には色々な人がいる」という事を考えると、きっとその人は、「色々な考えが有るということを理解することができない人」なんだ、と結論づけていた気がする。つまり、コメントなどで批判する人を、なんて心が狭い人なんだと、心のなかで批判していたように思う。
しかし、それすらも間違っているのかなと最近思うようになった。
正しいことの反対は正しいかもしれない
独立したミュージシャンたちのためのオンライン音楽ショップ「CD Baby」の創業者デレク・シヴァーズの動画。
デレク・シヴァーズ 「変?それとも違うだけ?」
ここでわずか数分で語られていることに大きく共感した。
結局のところ、いろんな考えがあるっていう事を理解してくれない、こういう考えを持っていないからおかしい、という単純な回答ではない。インドでは「なんであれ正しいことの逆はまた正しい」という言葉があり、素晴らしいアイデアを耳にしたら思い出して欲しい、その逆もまた正しいのかもしれない
そうではなく「色々な考えを受け入れる必要がない」という考えや、そもそも「正しいものの反対もまた正しいという考え」など微塵も考える必要がない、そういう人達もたくさんいるんだという事を、理解することが大事なんだなと思うようになった。
なぜなら、私もブログ記事を書いて「ここはこういう理由でこういう風に書いたほうがいい」とか「ここは消したほうがいい」や「ここを書く必要はない」などといった多くの意見があったとしても、私がそれを聞き入れるのはわずか数%です。
つまり私も口でなんだかんだ言いながら「色々な考えを受け入れる必要がない」「正しいものの反対もまた正しいという考えなど微塵も考える必要がない」と思いきり考えているという事です。
もちろん、コメントや投げかけ、その言葉を聞いて、自分がハッとしたなら修正しますが、すべて受け入れるわけがありません。これは昔からずっと貫いていることであり、なんだかんだ言って自分の思ったことをそのまま記事にしてきたわけですから、嫌われるのも当然ですし、はっきりと考えを示すことは、嫌われることでもあるけど、一部の人からは好かれることでもあります。
結局のところ「正しいことの逆もまた正しい」という言葉は、ひとつの物事や考え方をジャッジする時に考えるべきであり、他人と自分をジャッジするときには適さない言葉だなと思うのです。
大切なのはきちんとした自分を持つことなのかなと。
自分がいったい何をしたいのかって言うのを持つ事。そうすれば、多少何言われようとも、自分が書きたいことを書けるようになるし言いたいことが言えるようになります。
そして、他人が何を考え、何を言っていても、それに対して何かを押し付けたり、その間違いを正したいという労力を支払うくらいなら、やっぱりそれを自分の時間にあて、もしもそれで気になる考えが浮かんだなら、自分のフィールドで表現したほうが、はるかに自分のためにもなると感じます。
ただし、言葉使いは大事かも
何でも好きな事を言うって言うことは、もちろん何されてもおかしくない状況に自分を追い込みます。もちろん、殺されるような事にもなりかねません。
今年、私が4年前から尊敬するブロガーさんに、ツイッターでリプライを送り、初めてのコンタクトを取りました。思考、考察が面白くて、コメントなどもエッジが聞いていて刺激のある人だと思っていました。
ワクワクしながらコンタクトを取ったときに、最初にもらった言葉が、私の記事にたいして発せられた「糞記事」というツイートでした。私はそれまでその人に抱いていたイメージは崩れ、とても悲しい気持ちになりました。相手は単純に私が嫌いでコメントをしていたんだなというのがすぐに判りました。
いや、もしかしたらそうではないかもしれません。単に言葉が悪いだけで、記事のどこが悪いのかを伝えてくれたのかもしれません。尊敬していただけに、そう願いたい、という思いはかすかにありますが、第一声で「糞記事」と呼ばれると、そのあとの言葉はどうしても耳に入ることはありませんでした。
自分が書きたいことを書いているのだから嫌われるのは慣れています。しかし、誰かに、特に、個人に対して大きな悲しみを負わせるような言葉はなるべく避けなければいけないなというのは感じました。今は個人と個人の会話も手軽にできるようになったため、余計にそう思います。
自分を共有し続ける楽しさと勇気
勇気と書くとむずかゆいのですが、多くの人達は、自分がどれほど普通の人であるかをよく自覚させられることでしょう。
lifehacking.jpの堀さんと、今年の暑い夏にお話しした時のこと。
堀さんは多くの記事を定期的に書き続けて、いわゆるファンユーザーが多い「人気ブログ」を運営しています。
多くの読者と話したときに「堀さんほんとすごいですね」と言われる事に違和感を感じていたそうです。これは私も感じていることで「誰でも書こうと思えば書けるよね」という共通の結論がありました。
それがたとえどんな人であっても、特別で刺激的な記事を書くことができるのです。
ただし、それが読みやすいのか、読みにくいのか、まとまっているのか、まとまっていないのかは、書き続ける中で自然と身につくこと、学んでいくこと、気がついていくことです。内容を抜きに、最初から素晴らしい記事をかけるかどうかは、個人差はあります。
同じ内容、同じ事について書かれていても、AさんとBさんでは全く違うものになるということです。
私自身も特別な才能があるなどと考えたことはなく、調べたこと、学んだことを、考えたことを、ただひたすら書き続けただけなのです。
ダンス、スポーツ、音楽、漫画、イラストやデザインなども一緒じゃないかなと。同じりんごを書くにしても人それぞれ全く違うものができるわけです。私の表現が「文章」であり、あなたは違うかもしれない。
誰の中にも、それが当たり前で普通だと思っている事が、多くの人にとってはとんでもない財産になったり、刺激になったり、モチベーションに繋がったりするような、「すごいネタ」があります。お金が無くてぎりぎりの生活をした人は、お金持ちには見たことも考えることもできないような想像を絶する刺激的な話があるし、逆も同じです。
その表現が、音楽だったり、デザインだったり、漫画だったり、文章だったり、表現方法は様々なありますが、その表現方法には「訓練」が必要なのです。その訓練無しに表現しても、それが多くの人に届くのは難しいということです。
最も手軽な訓練方法こそが「定期的な共有」です。自分の作品を多くの人に見てもらい、評価してもらうことで、どんどんその表現が上達してきます。もちろん共有は、とても勇気のいることですが。
ただし、「そもそもそんなことを人と共有する必要がない」っていう人だってたくさんいます。そんな面倒なことをしなくなって生きていけるわけです。無理に表現に時間を費やす必要もありません。
ただ、なにかを残したい、自分をもっと表現したいと思った時に思い出して欲しいのです
誰にでもクリエイティブが眠っていて、もしそれを阻害するものが、外部の汚い言葉や悲しいコメントであるなら、それはすごくもったいない事であり、そんな下らない事柄に縛られる時間をもっと自分に費やして見て欲しいのです。
世の中には、人の行動やヤル気に対してずかずかと入りこんできて、ヤル気を根こそぎ叩き潰して去っていく人もいます。そういう人は、ヤル気を叩き潰した事すら3分で忘れます。もちろん、叩かれた方は一生忘れられない事として記憶されたりもします。
しかし、人に「自分」を示すことで、そういうヤル気を叩く人とは、逆の人と出会うチャンスが劇的に増加します。あなたにヤル気を与え、モチベーションを与え、刺激をくれる人と出会えるチャンスが増えるのです。
もし、あなたがツイッターという自分を表現するフィールドを持っていたなら、今まで尊敬していた人やあこがれの人と話すチャンスが増えた経験はありませんか?
mixiやfacebookによって、自分が落ち込んだ時に励ましてくれる人と出会ったことはありませんか?
私はブログを通じてより多くの人と出会うことが出来ました。もちろん、多くのヤル気、モチベーションをいただきましたし、今年は憧れのブロガーさんともお会い出来ました。
以下、今年私が激しく同意した記事。
どこかで見たことあるおじさんだと思ったら、上で紹介したデレク・シヴァーズの言葉だった。上で紹介した動画を初めて見たのは去年だが、この記事でも紹介されていてなにかが繋がった。まさかそのおじさまに、またこうして教わることになるとは夢にも思わなかったので、結局こうしてまた記事を書くきっかけとなった。
普通すぎる何かを抱えていないか?どんなクリエイターでも、こんな感覚を知っている。
誰かが革新的なものを作る。とても美しく、優れていて、はっと思わせるようなもの。思わず茫然としてしまう。
その考え方は思いも寄らないもので、非常に驚くべきもの、しかし、完璧だ。
思うはずだ、「それは考えもしなかった。どうやって思いついたんだろう。素晴らしい!」
しばらくして、こう思う。「自分の考えはありふれている。あれだけの創造力がないんだ。」
私もよくこの気持ちにとらわれる。素晴らしい本、音楽、映画、そして素晴らしい会話……クリエイターたちがどう考え出したのかと思うと、私は畏敬の念を抱き、鼻を折られたような気分になる。
(中略)
我々は、自分たちの創作物に対するとき、とても腕の悪い裁判官なのだ。創作物は広く公開して、審判を受けるべきなのだ。
あなたも、共有するには普通すぎる何かを、抱えていないか?
あなたにとって当たり前のことが他人にとっては驚くべき事である - GIGAZINE
素晴らしい言葉だなと感じました。
あなたもコメントなど恐れず、自分を何かで表現してみてはいかがだろうか?
表現とはなかなか楽しいものです。
さて、今書き上げたこの記事が、あなたの刺激の一つになれるのだろうか。それは公開するまでわからない事。
それでは、また。